2010年04月28日

忍者ってどこまでホントなの?

日本史@2ch掲示板より。


 1 :日本@名無史さん :2005/12/22(木) 05:50:20
 僕の友達(外国人)が知りたがっておりました。
 あと手裏剣の正しい投げ方もついでに教えてYO!!


 5 :日本@名無史さん :2005/12/22(木) 09:14:10
 霧隠れの術だけは本当に出来るけどね。


 6 :日本@名無史さん :2005/12/22(木) 09:37:17
 忍者道具の使い方は小説・漫画・映像作品で描かれてるような使い方と違う事が多いらしい。


 7 :日本@名無史さん :2005/12/22(木) 12:04:32
 そうだね
 手裏剣は缶詰め空けるのに使ったんだよ


 8 :日本@名無史さん :2005/12/22(木) 15:36:20
 実際、暗殺とかやっていたのかな
 実際は強盗に毛がはえたようなものだったのでは
 伊賀衆なんかは実質的には傭兵団だよね


 11 :日本@名無史さん :2005/12/24(土) 16:32:18
 おまえらは「天正伊賀の乱」見た?
 来年2月にはDVD発売だよ







 つーか天正伊賀の乱知ってるんだろうな


 12 :日本@名無史さん :2005/12/24(土) 16:42:22
 忍者とは関係ないな。


 13 :日本@名無史さん :2005/12/24(土) 16:55:51
 関係ないことないだろ。
 織田の大軍相手に夜襲、奇襲、毒矢、情報かく乱、暗殺など忍者大活躍の戦だよ。

 第二次伊賀の乱で伊賀の国は壊滅状態にされるが、
 第三次伊賀の乱では再び結集して織田軍の城を攻撃してるし


 14 :日本@名無史さん :2005/12/24(土) 17:10:14
 とりあえず
 「風魔小次郎」ならニンジャだが
 「風間小次郎」ならそこいらのオサーン


 15 :日本@名無史さん :2005/12/24(土) 17:22:03
 小豪族が連合自治をしていた山間の小盆地で、古くから都や都市部の情報や貨幣経済が入っており、
 出稼ぎや行商が当たり前で、体術の訓練が盛んだった地域の住民は

 みんな忍者


 21 :日本@名無史さん :2005/12/24(土) 20:50:31
 伊賀へ行ったら何者かに尾行されたり命狙われたりするから嫌だ


 22 :日本@名無史さん :2005/12/25(日) 03:15:41
 >>14
 風魔はもともとは風間さんだよ。騎馬に優れた小豪族。


 25 :日本@名無史さん :2005/12/25(日) 12:58:00
 忍者の仕事はメインは諜報・破壊工作。
 まあ、日本以外の国が今でもしょっちゅうやってる仕事さ。
 日本政府も忍者を見習って、情報収集と情報漏洩防止に努めるべし!


 26 :日本@名無史さん :2005/12/25(日) 13:38:42
 薩長が討幕の為にも使っていた筈の忍者については、明治以降の実態が全く知られていないのは謎だよな。
 もしもオレ達が維新の頃の薩長の政治家だったら、
 真方衆みたいな忍者軍団をどうする?
 解散を命じるか?雇用契約を解いて野に放つか?
 絶対有り得ないねそんな事。


 27 :日本@名無史さん :2005/12/25(日) 13:56:11
 >>26
 活動が知られていないからこそ極めて優秀な忍者、諜報員と言われる。
 資料のほとんどは大東亜戦争で敗北したときに焼かれている。


 28 :日本@名無史さん :2005/12/25(日) 13:59:10
 しかし資料は断片的に残っているし
 日清、日露戦争でも彼らの諜報活動は記録残されている。
 諜報活動に従事していたのは軍人や民間人はかなり多い。
 有名なのは明石や福島。
 だがそのほかにも数多くの諜報員が存在していた。


 29 :日本@名無史さん :2005/12/25(日) 14:01:01
 明石大佐の対露工作は諜報作戦の見本と言われつつも失敗という評価だったそうだ。


 30 :日本@名無史さん :2005/12/25(日) 14:02:03
 表向きにはな


 35 :日本@名無史さん :2005/12/26(月) 13:37:22
 山の民が戦国期に出稼ぎや自衛のために戦争に参加したというのを読んだことある。
 誰のか忘れちゃったけど、確か南北朝時代の研究者が出したもののはず。
 山では平地や武士の戦い方が通じないため、独自のゲリラ戦法やそれを生かす技術が発達したんだって。
 それが、情報収集に役立ったり、少数での後方撹乱となった。また、法師系統からの薬学の併用など。
 イメージとしては、秀吉の伝記に出てくる蜂須賀衆や雑賀衆ってとこだね。
 足柄山の風魔は薬関係に特化してるとか、全国各地の忍者衆で特徴があるよ。

 ちなみに、手裏剣は武芸として、兵法者が使う技術で忍者の専売特許じゃない。
 居なくなった理由としては、江戸時代の長期平和と民衆統制政策、経済流通の発達で
 他と交流無しに生活が困難になったためだとあったよ。


 36 :日本@名無史さん :2005/12/26(月) 17:25:50
 真方衆というのは島津家直属じゃなくて、たまたま南九州に基盤があったから
 島津とも持ちつ持たれつの関係を深めた傭兵軍団的な性格のグループらしいな。

 幕末にも何らかの役割を果たした可能性は大きいのに、廃藩置県と同時に消滅したとは考えにくい。


 39 :日本@名無史さん :2005/12/27(火) 16:50:25
 天正伊賀の乱って第三次まであったのか


 40 :日本@名無史さん :2005/12/28(水) 07:02:06
 第三次天正伊賀の乱
 本能寺の変で信長が倒されたと聞いた伊賀衆が再び決起した。
 裏切り者の福地城を攻撃し
 (第二次伊賀の乱の時、恐れをなした福地氏は伊賀を裏切り織田側について伊賀の秘密を漏らした)
 城を攻略する。
 他、伊賀各地でも反乱が勃発し織田信雄はこれを静めるべく三度兵をあげる。
 しかし伊賀の反乱は翌年になっても治まらず大規模な戦はなくなったものの数年の間続いたという。


 46 :日本@名無史さん :2006/01/02(月) 17:42:34
 http://www.bab.co.jp/hiden/dvd/03ken-iai-jyo/index.html
 戸隠流忍法体術についてのビデオがあるよ。
 本屋でも関係する技術本が売ってる


 47 :【勝小吉】 【20円】 :2006/01/04(水) 23:40:44
 武板でネタかぶってるのがあるので、一応うpしとく。
 あくまで古武道・居合関連中心のコメントだが。(順不同)

 946 :名無しさん@一本勝ち :2006/01/02(月) 10:09:07 ID:YOQEkv430
 忍術そのものが被差別階級の人たちによって受け継がれたものだし、
 やっぱり歴史の影にあたる部分だからではないでしょうか。
 その出自を考えれば、明治以降に精神鍛錬と称して
 武道化することもままならなかったでしょうし、、、
 今忍者道場を開いている人たちは、おそらく好事家が
 勝手にやっているだけではないのでしょうか。 憶測ですが。

 982 :名無しさん@一本勝ち :2006/01/04(水) 12:22:50 ID:XePn/aGv0
 忍者ってもいろいろだろ
 武士の忍者も居たんじゃねーの?

 985 :名無しさん@一本勝ち :2006/01/04(水) 20:43:34 ID:IYlIhp0J0
 服部半蔵正成なんかはその最たる者だね。

 960 :名無しさん@一本勝ち :2006/01/02(月) 21:54:47 ID:fBrYGG0O0
 忍術という独立した武芸が有ったかどうか疑問だな。
 古い武芸の中に忍術は何手か含まれているし。昔からの忍法を伝えた家もあったが。
 平山行蔵も伊賀者だが流派は普通に心貫流だしな。
 技自体もひたすら寒さに耐える稽古とか1日中拳骨で板を叩く稽古とか夜眼を利かすとか
 要するに地味で実用的な「基礎トレ」だけが残ってる位でないかな。
 本当に忍者に必要なのは武芸ではなくもっと別な技術だったと思うが・・・


 48 :【勝小吉】 【1万円】 :2006/01/04(水) 23:46:22
 バラバラですまんがもういっちょ

 961 :名無しさん@一本勝ち :2006/01/02(月) 22:14:46 ID:FdXIQn2z0
 忍術なんて、もともと伊賀の野武士集団だった連中が徳川家にお庭番として雇われたけど、結局同心クラスのペーペーでしかなく、
 家系図を作るブームが来た時に自分達も特別な存在だったと誇示したくてでっちあげたものでしかないでしょ。
 風魔とか軒猿とか黒巾着とかも結局密偵でしかないし、特殊技能と言えば、いかに相手に警戒心を抱かせずに接する事が
 できるかという今で言うと営業みたいな能力でしょ。
 武道みたいな精神性なんて・・・・

 962 :名無しさん@一本勝ち :2006/01/02(月) 22:36:46 ID:fBrYGG0O0
 いや兵法の中にも一部忍術が含まれているんだよ。
 系統立てていない実用技のコツみたいな感じで、どの流派にも数手づつ有る。
 それを9流派分集めて一派を成したのが初見先生(たぶんなw)
 香取神道流なんかその手の技は比較的多い。

 981 :名無しさん@一本勝ち :2006/01/04(水) 11:21:12 ID:61dnHmqY0
 被差別部落って、もしかしてソースはカムイか?

 983 :名無しさん@一本勝ち :2006/01/04(水) 12:47:20 ID:8LaJT28b0
 >>981 被差別部落については「カムイ伝」はややごちゃまぜな所があるきがする。
 おおざっぱに書くと
 乱破(らっぱ)、透破(すっぱ)、突破(とっぱ)とは『サンカ(山窩)』の言葉。
 長吏・捕り方・皮工芸等は『穢多』の仕事。
 浄瑠璃・芸能・刑吏等は『非人』の仕事。
 要するにサンカ・カワタ・クグツ等の「土地」に縛られない漂白民は諜報活動がし易く
 忍術にそのまま活かせる特技を持っていたということ。


 49 :【勝小吉】 【3億円】 :2006/01/04(水) 23:48:51
 978 :名無しさん@一本勝ち :2006/01/04(水) 02:08:03 ID:zn6p/si40
 えっと、忍術は言い換えると諜報、スパイのテクニック。
 居合は言い切ると語弊が有るけど、鞘に納まった状態からでも戦闘に勝つためのテクニック。
 戦わないで切り抜けることを目指す術と、戦闘に勝つ術は別ものです。
 ただ、手裏剣の得意な忍者や、剣術の得意な忍者もいたことでしょう。

 979 :名無しさん@一本勝ち :2006/01/04(水) 03:33:08 ID:8LaJT28b0
 忍術も現存するし、忍者・乱破(ラッパ・スッパ・トッパ)も居た。
 ただ忍術という名目の「武道流派」はたぶん無かった。
 「刀や手裏剣」は武術なので武道としていまだに残っている。
 しかし「壁に隠れたり天井に上ったりの」は武道と言うより軽業・鳶職の仕事。
 「諜報・スパイ」にいたっては武道とは別技術。
 忍者じゃないけどネズミ小僧の本職は鳶職。幕府隠密の間宮林蔵の本職は探検家w
 軽業等は被差別部落民等が行っていた。
 忍者とは人それぞれの特技を使って諜報、スパイを行った織人のこと。
 武芸者とは戦場で戦った軍人のこと。職種が基本的に違ってた。

 959 :名無しさん@一本勝ち :2006/01/02(月) 18:30:53 ID:I+OAwgGC0
 忍術は科学及び物理学などの要素と、心理学等の要素が濃いので武としての術とは言い切れません。
 明治維新以後の日本の科学を牽引したのは、忍びの里の出身者ともいわれるほどです。


 50 :日本@名無史さん :2006/01/05(木) 21:19:49
 >>46にある初見先生の戸隠流忍法体術は現代になって「古武道を集大成させた物」

 個人的には武道としては1級品だと思うが、古代〜戦国期の忍術とは別スタイルの
 「現代武道型の古武道」と見受ける。この方式は合気道や柔道の創生期にもあった事だ。

 忍術というより実戦的古武道を学びたいなら意外とオススメかも。


 53 :日本@名無しさん :2006/01/05(木) 23:30:11
 それにしても天正伊賀の乱で、伊賀軍の頭目的存在であった
 百地丹波の歴史がよく分かっていない事はなかなか面白い。
 栗林長門につぃては、さらによく分からない。栗林と百地が同一人物で、
 変装して2つの里を行き来していたという説もあるくらいだ。


 56 :日本@名無史さん :2006/01/06(金) 17:05:32
 >>53 あまりよく知らんので質問するが「伊賀軍の頭目」というのはどういう身分だったの?
 伊賀の領主?地侍たちの親分?伊賀地方の乱破の首領?本願寺教団みたいな教祖?


 57 :日本@名無しさん :2006/01/06(金) 17:22:57
 伊賀上忍三家(服部・藤林・百地)が伊賀忍の頭目。
 信長に攻め込まれた時は、百地が主導権を握っていたといわれている。(異説あり)


 58 :日本@名無史さん :2006/01/06(金) 17:35:59
 そう言えばさーこないだの徳川三代の野望は十兵衛役やった役者が何人も出てて笑えた。


 59 :日本@名無史さん :2006/01/06(金) 18:41:27
 >>57 その「伊賀の忍」とはいったい何だったのだろう?
 地侍のような武士なのか?ゲリラ戦を得意としたなら猟師。薬学兵法に通じているなら山伏の類か?
 それともそういう技術を領民に学ばせたのか?

 「伊賀上忍三家」とは伊賀共和国?の領主と解釈していいのかな?


 60 :日本@名無史さん :2006/01/06(金) 23:05:30
 楠木正成の勢力が忍軍とか呼ばれてたよね?
 その末裔とか南朝の勢力地に代々居て、朝廷に助力してたって伝説を聞いた事あるけど


 61 :日本@名無史さん :2006/01/07(土) 01:54:15
 「太平記」では後醍醐天皇の皇子「護良親王」は鎌倉倒幕のために比叡山(山門)の
 天台座主として僧兵の力を使った。
 当時の寺院は薬学、化学の最先端を行ってた訳でしょ?さらに武力も持っていた。
 南朝方は山へ山へと戦っているよね。
 サンカ・聖・修験者等を南朝が武装化させていったというのは飛躍させすぎかな?


 62 :日本@名無史さん :2006/01/07(土) 04:10:40
 サンカ・聖・修験者と南朝の関係の立証と接触の後に武装化していったということを証明できれば。


 63 :日本@名無史さん :2006/01/07(土) 13:35:21
 >>62とりあえず検索。こんなもんでどうだろ(疲れたゾ・・・w)

 【伊賀忍者真説49の足跡】http://www.igabito.jp/ninja_map/index.html
  >「観阿弥が座を立てた後、故あって母の素性を明かさなかった。」とある。
 これは観阿弥が足利氏に対立していた楠木正成の甥であるのを隠すためであった。忍びと猿楽芸能民との関係は深い。
 猿楽などの中世職能集団は各地を転々としたので諜報活動にはもってこいの職業であった。各地の情報入手は容易であり、
 「七方出」という忍者が変装する7つの形態の一つが猿楽師であった。以上の事から観阿弥忍者説がある。

 【Wikipediaから抜粋】
  >楠木家は鎌倉幕府の御家人帳にない河内を中心に付近一帯の流通ルートを支配する「悪党」とよばれる在地の豪族であったと考えられている。
  >伊賀上野市の旧家から発見された上嶋家文書(江戸末期写本)では、伊賀、服部氏族の上嶋元成の三男が
 猿楽(能)役者の観阿弥で、その母は楠木正成の姉妹であるという。世阿弥(世阿彌)は先祖は、服部氏と自称していた。
  >後醍醐と正成を結びつけたのは、伊賀兼光、あるいは真言密教の僧である文観と思われる。

 【「情報夜話」金谷信之著より一部抜粋】http://www.infonet.co.jp/ueyama/ip/index_e.html
  >後醍醐天皇の影で画策したのが醍醐寺の座主文観である。
 醍醐寺は後に修験道当山派の総本山になる寺である。よって全国の修験系の寺院が倒幕運動に加わる。
 後醍醐天皇が逃げ込んだ笠置山は文観の相弟子聖尋の寺。護良親王が挙兵した吉野山の金峯山寺は醍醐寺系の寺である。
 そして、楠木正成は、河内天野の金剛寺の荘官であった

  >楠木正成の背景、そして、天皇方 を支えたものを、 当時、荘園の散所 (さんしょ) の民や、社寺の神人 (じにん) 寄人 (よりうど)
 あるいは、公家などの供御人 (くごにん) などとして現れてくる商工・運送業者、芸能集団などの新しい階層に置く見方もある。
  >土地を離れた非定住的な人たち同士の独特な情報網が考えられる。

 【「特殊部落発生史」八切止夫著】 >足利創業の邪魔だてをした南朝方の子孫を捕らえて、散所(山所)の居付き部落とした


 64 :山野野衾 ◆CXSSL1llHI :2006/01/07(土) 13:58:14
 サンカや八切は胡散臭いですし、観阿弥が系図で楠木正成と繋がっていると
 いうのも怪しいですが、『太平記』で日野俊基が山伏姿で各地を廻り、城郭と
 して使えそうな土地や風俗・人の分限を見定めたという話があります。
 「史学の益なし」と言われる『太平記』ですが、少なくとも後醍醐天皇が山伏は勿
 論の事、各階層に分布していた悪党の海運も含めた情報ネットワークを情報収
 集・伝達・宣伝に使用したという事は、よく言われているのではないかと。
 楠木正成との縁も、夢などでは無く、河内の金剛寺が後醍醐天皇が伝領してい
 た八条院領に連なっており、山伏を掌握していた同寺と、同じ河内で流通ルー
 トを把握していた楠木氏の正成が繋がった為だという説があります。
 一箇所に根を張りながら勢力を拡大する以上、他の地域からの物資や情報に通
 じている必要もあり、お山の大将ではいられませんからね。
 兎角山出しの無知な田舎者と考えられがちですが、したたかですよ。>土豪

 この時代、情報収集には山伏・禅僧・遁世者が陣中に入って祈祷や布教を行い、
 戦場での陣から陣へと移動出来るので、重宝されていました。
 時衆や律宗の僧侶の活躍も目立っており、とりわけ前者は14世紀半ばから風
 呂の経営を行う事が多く、同所が休戦中の敵味方が入り混じる一種のアジール
 であった事から、耳が早かった様です。
 時衆の側からも、世俗の事に関るなと禁令が出されていますが、なかなか。


 65 :日本@名無史さん :2006/01/07(土) 15:17:08
 ををっ!山野氏降臨っ! 源平スレではお世話になりましたw(ヒマだな・・・俺w)

 あいさつはさておき ここは忍術について。
 時衆や律宗、乞食僧、山伏・陰陽師のような輩は全国を自由に徘徊できる諜者と
 しての能力もありましたが、薬学、化学の技術をゲリラ側に広めたのではないかと
 思います。

 禅僧というのはよくTVの時代劇でおなじみのw『普化宗』(尺八禅)ですか?
 後に隠密「虚無僧」として徳川により再組織化されますね。


 66 :山野野衾 ◆CXSSL1llHI :2006/01/07(土) 15:57:01
 虚無僧とか薦僧とか呼ばれた者かどうか、判別がつきません。
 この頃には廻国修行をしていた様ですが。
 彼らが隠密として組織されたという事は存じません。
 近世には浪人がその姿をとって風紀を乱し、天保年間には特権を剥奪される
 などしているので、宗派ぐるみという事も無かったと思いますが。
 元々、情報収集を行う宗教者・流通業者の側と、荒事を行う土豪や野伏の側
 が存在して、時には権力者が利用する事もあったが、行住坐臥「忍びの掟」と
 いうものに縛られて生活している里は無かったと思います。
 応仁頃に成立した『鴉鷺物語』第七に、
 野伏は走り散りて馬武者にからかひあへ。懸けば引、引かば送り、敵に強り
 あはず、城あらば踏み留りて矢ぶすまをつくれ。いかにもいかにもむつかし
 きをもつて野伏の能とす。
 とある様な、まともに戦えば弱い、山地の住人が雇われたぐらいかと。
 それでも、この応仁の頃から活躍の場が広がり、戦国期になると城内潜入な
 どもやっていますが、起源も中身も雑多な存在だったろうと思います。
 ただ、その中で伊賀や甲賀がよく利用されたのは事実で、藤堂家では火薬の
 実験やその成果が定期的に披露され、門外不出とされていました。
 松浦静山の随筆『甲子夜話』によれば、彼の家中にも先祖が伊賀出身者がいた
 という様に、各大名は一家は養おうとしていた様です。
 しかし、静山の時代は江戸も後期に入った頃で、伊賀に多い柘植という苗字
 を持っていた家臣柘植某は、先祖が伊賀出身であった事を知っているだけで、
 その時代には何の技能も持ち合わせてはいなかったという事です。


 67 :山野野衾 ◆CXSSL1llHI :2006/01/07(土) 16:07:36
 『半七捕物帳』の中に、『旅絵師』という話がありますが、江戸の庶民の間でも
 隠密は知られていた様ですが、起源や実際の活動については噂が先行するば
 かりであった様で、混乱が見られます。
 『戊辰物語』にも、伊賀衆にインタビューを行った記事があり、「いわゆる忍
 術などを使った侍の家筋で」と解説されていますが、当人の山中笑という人
 物が、自分は「槍術の名門服部半蔵の手下」の家筋で、十四歳から御広敷添番
 という「いわば城内大奥の風紀係りのようなもの」をやっていたと語っている
 通り、別段変わったところはありません。
 ただ、『旧事諮問録』に、明治25年に元お庭番の川村帰元という人がインタ
 ビューを受けた際の記録がありますので、そちらを少々。


 68 :山野野衾 ◆CXSSL1llHI :2006/01/07(土) 16:37:47
 ・・・・と思いましたが、少々長過ぎるので止めておきましょう。
 一応、「内密御用」という事で、国主大名の品行を調べたなどとあります。
 悪い事に限らず良い事も報告したとか、遠国の地震の被害を調べに行かされ
 たなどと書かれていますよ。
 京阪に一人ずつ、享保年中に出て、表向きは呉服商を営みながら、明治維新
 まで知られなかった「手先」=協力者がいたとか、割と面白い。
 なお、元目付・大目付・江戸町奉行・神奈川奉行・外国奉行の山口泉処の談話もあるの
 ですが、それによると隠密というのは目付配下の御小人目付という者で、こ
 れが八百屋などに化けて人情を調べていた、という事です。
 お庭番とは別。城郭修築などの申請があった時の探索などを行なったと。


 69 :日本@名無史さん :2006/01/07(土) 16:43:49
 南朝と結びつく前から武装してたようなので>>61氏の説はNGだねえ。


 70 :日本@名無史さん :2006/01/07(土) 17:03:07
 >>69 いやいや実は想定の範囲内じゃったぞw(←ウソ)
 ちと話をそらして江戸期の忍びについて。

 『普化宗』に関してはたしか臨済禅に編入されているはずです。普化禅師は「臨済録」にも出ていてアホな事をやっていますがw
  >江戸幕府との繋がりが強かったため、明治になって政府により1871年に解体され、宗派としては失われている。
 とWikipediaにあります

 御庭番川村家に関しては
  >「御庭番の前身は、吉宗が将軍就任前に藩主を務めていた紀州藩お抱えの薬込役と
  >呼ばれる役人たち十数家の世襲制」
 と、Wikipediaにありますね(Wikiばっかりだな・・・藁)
 余談トリビアで小説家の高橋克彦は北斎の実家「川村」姓から、お庭番だったのではないかといってますね。


 72 :山野野衾 ◆CXSSL1llHI :2006/01/07(土) 17:17:08
 引用にあたって省略しましたが、17家です。wikiは信頼性に難が。
 薬込役というのは、鉄砲の薬込役。これが一番多かったそうですが、当初の
 石高は僅かに10石ばかりであったとか。
 後、17家の中にはお庭番を継げ無くなった家も出て、他家の次男や三男が
 務める様にもなったそうです。17人は、多いか少ないか。

 アホな事といえば、幕末に御小人目付が京都町奉行所の者に目をつけられて、
 捕えられてしまい、恥をかいた事があったそうです。なんともはや。
 高橋先生は、トンデモ説が多く、と学会会長も「この人だけは許せない」と書
 いていましたが、ここは可能性だけなら考えてもいいのでしょうか。
 普化宗は、宗派としては消えたものの、明暗や普化などの名で教会として再
 出発していた様な。本が手元にありませんが。


 73 :日本@名無史さん :2006/01/07(土) 17:45:19
 お庭番も川村、村垣、明楽あたりになると遠国奉行歴任した人がいたり勘定奉行出したりしてるからねえ。
 単純に忍者ともいえないような。むしろ情報アナリストとかそっちのほうに近いのかもね。


 74 :日本@名無史さん :2006/01/07(土) 23:23:14
 >>72 ほー薬込役とは鉄砲のことですかー 薬剤師かと思ってたw dクスです。
 ならば火薬の専門家ですか?日本の硝石は天然ものが無いので自家製造だと聞きますが
 そうするとやはり化学系?根来衆?忍法微塵隠れできそうw

 でも臨済宗で1番アホなことやってたのは織田無道かな(爆w

 >>73 はるか九州の島原の乱を「ただの一揆ではない」と言い切った柳生宗矩とか
 戦前ではゾルゲ事件の「満鉄調査部」なんかがそうだよね。

 中には間宮林蔵みたいなのもいるから教養のある潜入調査員も必要なんだろうな


 75 :日本@名無史さん :2006/01/07(土) 23:43:23
 鉄砲関係は近江国友村が面白い。実用性皆無な空気銃とか銃身20本束にした連発銃とか。忍者関係ないけど。


 76 :勝小吉 6文銭 :2006/01/08(日) 01:13:55
 >>75  >実用性皆無な空気銃とか
 失敬な!w 平田篤胤著「仙境異聞録」では天狗と鬼が風炮で戦っているぞ(爆w
 「国友の空気銃」は実はそれを基につくられておるのぢゃw (なんと実話!)

 >(仙童寅吉に)「鉄炮ありや」と尋ぬるに、
 >「鉄炮は世にある常の鉄炮なるが、外飾は聊か異にて、大きなるも
 >小さきもあり。また風をこめて打つ鉄炮もあり」と云ひ出でたるに、
 >国友能当は甚(いた)く驚きぬ。これ己れと共に仙炮の事を問へる始めなり。

 【仙境異聞】http://www.geocities.jp/sybrma/43senkyouibun.html
 http://www.books.x0.com/torakichi/text01/text008.htm


 77 :山野野衾 ◆CXSSL1llHI :2006/01/08(日) 01:27:32
 >>74
 伊賀衆だそうです。近世には、伊賀組・甲賀組・根来組(前身故総髪)・
 二十五人組が江戸城の門や将軍参詣時の警備を務めていましたが、地道
 なお役目ばかりが目につきます。
 松浦家の術を忘れた柘植氏の様な人も、多かった事でしょう。

 >76
 >天狗と鬼が風炮で戦っているぞ(爆w
 リンク先には見えない様ですが、どちらに。
 ところで、「此の頃国友氏が風炮にいたく驚きをるに」とあるからには、既
 に空砲を知っていたので、余計驚いたという事では。
 ひょっとして、某小説をお読みになったので。


 78 :日本@名無史さん :2006/01/08(日) 02:16:35
 某小説とはなんですか?気になります。
 平田篤胤との交流もオランダ渡りの風炮のことを知ったのも江戸に留め置かれてた時期でしょうな。
 江戸で作ったとも思えないので国友に帰ったあとに製作したんでしょう。
 この人も同時代人の平田源内と同じく珍妙なものを多く作ってますね。
 影の軍団に出すんならこっちのが適任な気がしますな。最後に綺麗に忍者ネタに繋がってよかった。


 79 :日本@名無史さん :2006/01/08(日) 02:26:26
 確かね、靖国神社の資料館に変な鉄砲が飾ってあった気がする。
 今もあるかは知らんけど。


 80 :勝小吉 6文銭 :2006/01/08(日) 04:42:06
 >>77  >リンク先には見えない様ですが、どちらに。

 げげげっ!先生そこ笑う所笑う所。 まさかそっちの方をつっこまれるとは・・・(汗w
 とりあえず現代語訳で良ければhttp://members.at.infoseek.co.jp/senkyow/
 もちろん忍法も寅吉は知ってますぞ!

 >忍術法のこと。髪を振り乱し、股を開いて陰門をさらし
 >中腰で手を○○のところに当てて立つ裸の女の像を椿の木から彫る。これを本尊として祭る。
 >その祭り方は、この像を糞壺に逆さまに数日間漬けてから取り出し、頭蓋骨に女の月水を入れ、
 >それを手で像に塗りつけながら『ウンタラタサフラン』と唱えて祈る。

 ・・・完全にからかわれてます。平田さん。


 83 :日本@名無史さん :2006/01/08(日) 13:33:19
 >>72
 >普化宗は、宗派としては消えたものの、明暗や普化などの名で教会として再出発

 それ、たまたま今さっき剣豪スレでも出て来たんですよw
 【海童道(わだつみどう)】道祖は元普化宗の管長の『田中普門』(武道家・音楽家)。
 明治44年福岡生まれ。独立して海童道の宗祖となる。
 ちなみにこれは尺八の流派みたいです 他にも普化宗団体はあるみたいですが
 虚無僧のように乞食の伝統があるかどうか不明

 琴の家元が検校で、尺八の家元が禅の乞食坊主なのも面白い


 84 :日本@名無史さん :2006/01/08(日) 14:19:22
 幕末から明治初頭まで、忍者はいたらしいぞ!
 名前忘れたが、水の上歩くやつ。ありゃ絶対作り話や。
 がきの頃、靴改造したり、いろいろ手をつくして挑戦したが
 絶対無理やった。


 85 :日本@名無史さん :2006/01/08(日) 14:29:42
 作り話か〜?ww
 伊賀の忍びの法にくらませられたのだ。ww


 86 :日本@名無史さん :2006/01/08(日) 14:33:03
 >>84水蜘蛛はあの姿のままではなかったようだよ。
 足を突っ込んで進む船みたいなものだったらしい。伊賀の里とか行くとアトラクションであるけどねw

 幕末までは、服部家が続いてたはずだから、それで忍者はいたということじゃないのかな?
 本人達は屋敷警護の閑職だし、領地内も安泰だろうし、伝承という意味で伝わってきたんじゃないの?
 明治政府にしたら怖いから潰したんだろうし


 89 :山野野衾 ◆CXSSL1llHI :2006/01/08(日) 16:08:50
 >>79
 大したものではございません(というのも作者さんに失礼ですが)。
 10年ほど前に中高生が読んでいたのを、縁があって何冊か読んだものです。
 娯楽系ですよ。史学の用はなしません。
 >最後に綺麗に忍者ネタに繋がってよかった。
 ここは、突っ込むべきところなのでしょうか。

 >>80
 立川流か、それに似た民間宗教者が隠してやっていた「邪法」でしょう。
 『嬉遊笑覧』などによれば、山伏やそれと夫婦になる事が多かった巫女がかな
 り怪しげな「ご神体」をつくって持ち歩いていたらしい。
 『半七捕物帳』は、幕末の風俗を知るのにいい作品ですが、その中に『菊人形の昔』
 という短編があって、在野の巫女が出て来ます。
 (話はずれて却って本題に近づきますが、情報収集役の一角を担えた存在)
 天狗に攫われたかどうか知りませんが、実際かなり博識ですから、民間宗教
 者とお近づきになっていたのかもしれません。
 『漢書』の「壺中天」系の話など、元ネタが多彩です。

 >>83
 >虚無僧のように乞食の伝統があるかどうか不明
 今はどうか知りませんが、広島県の田舎には、戦前は来ていましたよ。
 編笠をかぶり、尺八を吹いて乞食をしていました。

 >琴の家元が検校で、尺八の家元が禅の乞食坊主なのも面白い
 琵琶や琴を扱った盲人の最高職が検校でしたが、芸能民などが僧形をとる事
 は多く、室町時代には朝鮮人から「天下の半分は僧形」と言われています。
 近世になるとそうでもありませんが、医道・茶道・華道と剃髪が多い。
 仏教文化を無視して、日本文化は語れません。剣豪も入道したのが多い。

 >86
 初代半蔵(正成)もそうでしたが、鑓の名人でこそあれ、忍びとして働く様
 な事は、実際には無かった様です。それとも、伊賀の服部家の事ですか。


 90 :86 :2006/01/08(日) 16:36:07
 >>89 家康の伊賀越えの時に召抱えられた集団を差して言おうかと思ったんですが・・・
 その縁で服部半蔵が屋敷警護の伊賀系頭目とかでしたよね?
 三代目が追い出されてたと何かの本で読んだので印象深くて
 記憶違いでしたらすいません。


 91 :山野野衾 ◆CXSSL1llHI :2006/01/08(日) 17:01:10
 ああ、あちらの方ですか。
 上にも書いた様に、時代が下るとただの警固役を務めた様で、三田村鳶魚な
 ども、伊賀組や甲賀組が隠密役を務めた事は無いと書いています。
 半蔵も、普通の武士としてそのまとめ役をしたものでしょう。
 (『寛政重修諸家譜』には、初代が十六歳の時、伊賀の忍び者数十人を率いて
 三河の城内に侵入して功を立てたとありますが、時代が下りますし。『徳川
 実記』には、間諜を務めてから大奥へとありますが、よく分かりません。伊
 賀の者の中には、特殊技能が期待されたものもいたでしょうが)
 何度か述べさせて頂いた御広敷番というのは、大奥の警備や雑用をしていた
 者で、「伊賀の者」と言えば大奥勤めを指す例もあった程です。
 やはり、隠密役は目付配下の御小人目付、中でも黒鍬から昇進した者が命じ
 られて務めた様です。黒鍬はこの間の某時代劇でお伝の方の実家だと散々馬
 鹿にされていましたが、それも無理は無い事で、要するに雑用係です。
 公の場での苗字・帯刀も許されていなかったというくらい、地位は低かった。
 ただ、天保六花撰の一人片岡直次郎を黒鍬として描かれたものもあるぐらい
 ですから、民情には程良く通じていたらしく、黒鍬から昇進した者が特に変
 装して捜査を行なったそうですよ。

 服部家は正成没後、正就らが不手際を重ねて没落していますが、その後伊賀
 組を任されたのは、別に伊賀とは縁の無さそうな人も多かった。


忍者ってどこまでホントなの?
http://academy5.2ch.net/test/read.cgi/history/1135198220/


タグ:2ch 日本史
posted by 三葉虫是政 at 16:26 | Comment(2) | TrackBack(0) | 2ch | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
君らほんま詳しいね
じゃあこれどうなの?
小さいころからスパルタで訓練すれば木から木にジャンプやら、塀を簡単に登るやら常人にはちと無理な動きはできるの?

くノ一は、色仕掛け的なえっちぃ技はあったのか教えてほしい。またそういったことを訓練してたのかなw
Posted by at 2010年05月04日 01:09
忍法「松葉くずしの術」なら使えるぜ?
Posted by w at 2010年05月04日 18:45
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